河原城風土資産研究会
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天正8年(1580年)羽柴秀吉が因幡国攻略の時、郷民の大半は毛利家へ志を通じていたが、弓河内(ゆみごうち)郷の農民は羽柴秀吉へ味方し、北村六郎左衛門(ろくろうざえもん)は秀吉軍の先駆をなし道を開いた。この北村六郎左衛門とはいったい何者なのだろう。
北村六郎左衛門は当時、八上郡北村弓河内(鳥取市河原町弓河内)の長で、北村富蔵家系図をさかのぼると初代・岡中務は越前国榊田において知行三千町歩を領していた。しかし、元弘・建武(1331~1336年)の兵乱で滅亡し因州まで流浪し、ここ八上郡に住み着き農家となる。その後、当郷の長となったがいつか世に出ることをと時代の推移をうかがっていたが、老衰して入道した。岡中務は姓を岡村と変えたが、近郷の人々は北村入道といっていた。この入道の次男の嫡子を岡弥四郎と言い、のち六郎左衛門となる。
こうして3世目の六郎左衛門は信ずる所あって、羽柴秀吉へ味方し、在郷の農民とともに釜口にて秀吉を迎えた。口碑によれば、北村六左衛門は行器(ほかい:食物を入れて持ち運ぶ、木製でふた付きの容器)に5荷の強飯(もち米を蒸した飯)を進上したという。
秀吉が因幡の国を平定後、鹿野城には亀井新十郎、鳥取城には宮部法印が城代として常駐していた。ある時城代の交替があり、前城代が帰路の途中の出来事、用瀬の辺りで郷民が蜂起して道を遮りじ城代一行に襲いかかりました。若桜(わかさ)の荒木氏が出陣して一揆は退散したが、この事を聞いた北村六郎左衛門は直ちに手勢百四~五十人を連れ松明をたくさん灯し、鹿鎗、そぎ竹数十本を持たせて一揆を追い退け、城代を自宅へ一泊させ、翌朝 国境までお送りしました。城代はことのほか満足し引出物を頂いたそうです。
このような数々の働きに対し、六郎左衛門は大阪まで召し出され「数度の働き神妙のゆえをもって、秀吉の家来に召し抱える」との言葉を賜りましたが、近在にならびない大富豪であった六郎左衛門はこれを辞退しました。代わりに永代安堵の品、及び「感状(功績を称える)」(北村家所蔵)を賜り、国役の永代免除や年貢・宅地の免税などの優遇を受けた。
■羽柴藤吉郎掟書 天正8年10月6日■天正8年(1580年)5月、秀吉の因幡進攻により「一揆」を起こす村が多かったが八上郡弓之河内村は一揆勢力に加担せず、忠節を守ったので秀吉が恩賞を与えている。本状はその掟書で以下のことを定めている。
1. 亀井新十郎の定めた年貢・諸済物以外は今後徴収しないこと。 2. 末代まで国役を免除することを定めた。 |
また、翌天正9年(1581年)には「禁制(きんぜい)」(北村家所蔵)を賜っている。
「禁制」とは、鎌倉期以降 支配者が寺社や民衆に対して禁止する事柄を広く知らせるために作成した文書で、文書として記してあるだけではなく、木札に墨書して人目につきやすいところに掲げ、のちには駒形の木板に書いて提示される高札などによって示されるようにもなった。
■羽柴秀吉禁制 天正9年7月■羽柴秀吉が村々に与えた禁制。 三カ条からなり秀吉軍勢の行為を禁じたものである。 1.乱暴、狼藉を働くこと。 2.放火すること。 3.田畑の作物を刈り取ること。 |
因幡国内には類似の禁制が幾つか確認されており、弓之河内以外は全て秀吉軍が因幡に進攻した直後に与えたもので、山方之郷(現智頭町・天正8年5月16日)、用瀬之郷(現鳥取市用瀬町・天正8年5月)、布施南北(現鳥取市布施、天正8年5月20日)が確認されている。
禁制を見ると、秀吉軍が志戸坂峠周辺を越え、5月16日に山方之郷(現智頭町)、20日に布施南北(現鳥取市布勢)で保護を約束し、毛利方の鹿野城を攻略して6月には鳥取城を包囲・落城させた進攻ルートが判ります。
何百年も昔のことですが、時を越えて語り継がれたり、実際に有形の足跡を目の当たりにすると、私たちとは無関係に思える歴史上の人物や出来事がとても身近で、ちゃんと繋がっているんだ!と感動してしまいました。 そして、今度は私たちが次の世代に伝えていかなければと思うのです。
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