河原城風土資産研究会
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河原城の歴史

“鳥取城攻め” 羽柴秀吉は丸山城から進軍

織田信長から中国攻めを任せられた羽柴秀吉は、天正8年(1580年)播磨からに因幡国の山名豊国の鳥取城を攻めるため、出陣しました。羽柴秀吉は、羽衣石城の南條氏を味方につけ、山名豊国の出城の鹿野城を攻略、織田方の城となり、亀井茲矩(かめい これのり)が守将となり、鳥取城の孤立が深まりました。秀吉は「降伏すれば、因幡一国を与える」と申し入れますが、山名豊国からの降伏の返事が遅かったという理由で、山名豊国には法美・邑美の2郡しか与えられませんでした。

吉川経家の銅像
吉川経家の銅像

降伏に反対する山名方の重臣、森下道誉、中村春続らは城主、山名豊国を追放し、家臣団は毛利氏に属することに決め、吉川元春(きっかわ もとはる)に新城主の派遣を依頼、天正9年2月(1581年)石見国福光城主の吉川経家(きっかわ つねいえ)を城番に迎えることになりました。城番となった吉川経家は、海賊だった部将、奈佐日本之助(なさ にほんのすけ)には海に近い丸山城の守将を、山賊だった塩屋高清(えんや たかきよ)には雁金城の守将を任せるなどの配置を行いました。


再び毛利方になった鳥取城を攻略するために羽柴秀吉は、天正8年の播磨国三木城の兵糧攻めの時のような長丁場になることを恐れ、若狭から商船を鳥取に送り、破格の値段で穀物を買い付けさせました。鳥取城下の人々は、その破格の値段に喜び、次々と穀物を売り、その評判を聞いた鳥取城の家臣たちも兵糧まで売ってしまう羽目に至りました。家臣たちはそれで得た金銭ですぐにでも兵糧を買い付ければよいと踏んでいましたが、その間もなく、天正9年(1581年)6月姫路城を出陣した秀吉は、鳥取城への全ての兵糧運搬ルートを封鎖し、7月に鳥取城の東の帝釈山(現在の本陣山)に本陣を据え、2万の大軍で鳥取城を包囲しました。


結局、十分な兵糧を蓄えることもできず、籠城戦が始まってしまったのです。鳥取城内には領民も含む4千人が立て篭もりましたが、約1ヶ月分しかなかった兵糧はまたたくまに底を突き、毛利軍の陸路・海上からの兵糧運搬の試みも秀吉軍に阻まれ成功しませんでした。籠城4ヶ月後の10月には、城内の草木、小動物、乗馬など食料となるものは全て食べつくされ、死者の肉を奪い合って食する者も出てきました。


吉川経家の銅像と石碑
吉川経家の銅像と石碑

この地獄のような光景に吉川経家は、家臣・領民の助命を条件に切腹する決意を固め、織田方との交渉の結果10月25日に自刃しました。開城後、秀吉は大鍋で炊いた粥を城兵たちに振舞ましたが、空腹の上に勢いよく粥を食べたために急死する人も多かったと『信長公記』には記録されています。鳥取城の戦いは、織田氏と毛利氏の攻防において重要な意味を持ち、天正8年の三木城開城に続き、織田軍の中国地方攻略の大きな布石となりました。

(毎週金曜更新・全5回)

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