千代川の下流に広がる田畑を潤すため、川の左右に大きな農業用水がつくられています。千代川から見て西にあたる左岸につくられたは大井手用水、東にあたる右岸には大口堰用水といい、いずれも県内屈指の大用水路です。大井手用水は徳川方に千代川西岸一帯をまかされた鹿野城主・亀井茲矩(かめいこれのり)によってつくられました。
大井手用水の恩恵を長きにわたって受けている地域の人々は、この用水を「亀井さんのおおいで」と親しみを込めて呼び、茲矩への感謝の意の表れとして昭和27年に河原町宮の前にある樋口神社に、亀井公頌徳碑が建立されました。
鳥取県の3大河川の一つ、千代川。中国山地から流れ出る水が合流する地点が河原町です。河原町に点在する数多くの古墳は、古から水が豊かなこの地を安住の地として居を構えていたことを物語っています。毎年6月の鮎の解禁日には多くの太公望が押し寄せ、千代川の夏の風物詩になっています。
昔、八上の郡小河内谷(おごうちたに)と北村谷との間に兵円山(ひょうえんざん)という山があり、大小無数の谷や尾が千谷もあることで知られていた。弘法大師がこの山を高野山のような霊場にしようと考え、ひとまず高野山に戻った弘法大師は千の谷に仏像を一体ずつ安置しようと仏像を作り始めました。
このことを知って憤慨したのが、この山に住むアマンジャクでした。「俺の住みかが霊場にされては堪らない」と、知恵を絞り一丘一谷を隠すことを思いつき、土をもっこで担いで海に捨てにでましたが、途中、大路のあたりでもっこの綱が切れてしまいました。そこに残されたのが、雲山と大路山です。
再び兵円山に戻ってきた弘法大師は谷の数をあらためたところ、谷は九百九十九しかありませんでした。そのため、霊場を断念し、千体の仏像をこの川に全て川に流されました。それ以来、この川を「せんたいがわ」千体川(千代川)と呼ぶようになったと伝えられています。