河原城風土資産研究会
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古事記の倭ごころ

その拾七「八上比売の謎・その2『御子神は二人いた!!?………かもしれない』篇」

2012年12月29日

みなさん、こんにちはー!!。今年のクリスマスはいかがお過ごしでしたか? クリスマス寒波で全国的にこの冬一番の寒さだったとか(まだ続いてますが)…… ホワイト・クリスマスだったところも多かったようですね~(*U_U*)

さて神話の神々vol.6は天の石屋戸(あめのいわやど)の話にいきたいところですが、先日のシンポジウムでの研究報告の掲載をお約束したので今回は「八上比売(やかみひめ)の謎・その2『御子神は二人いた!!? ………かもしれない』篇」を報告しま~す。

今回のシンポジウムは「古事記と民間伝承を通して、古代因幡やそこに暮らした民衆との関わりについて考えてみよう!!」ということですが、やはり因幡といえば「稲羽の素兔」。7月に続いて地元河原町の「八上比売の謎・その2」ということで、今回は御子神についての調査報告です。

ところで みなさん、八上比売と大国主命の間に生まれた御子の名前をご存知ですか?『木俣神(このまたのかみ)またの名を、御井神(みいのかみ)』といい、古事記にも記述があります。八上比売の記述もほんの数行ですが、この御子についても古事記に記されているのはたったの1行ほどです。神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)との御子・事代主神(ことしろぬしのかみ)や、沼河比売命(ぬなかわひめのみこと)との御子・建御名方神(たけみなかたのかみ)などは国譲りで活躍するので知られていますが、木俣神はあまり知られていませんし、知っていても【木の股にさし挟んで置かれたから木俣神と名付けた】と、神名由来からしてちょっと可哀そうな印象を受けてしまいます。もっと ひどいのは八上比売で、正妻の須世理毘売(すせりびめ)を畏れて、【御子を木の股にさし挟んで因幡に帰ってしまったヒドイ母親】という悪いイメージが出来てしまっています。本当にそうでしょうか!? 地元では古事記とは別の神話伝承があります。

ここで八上比売像のついて、もう一度考えてみましょう。正妻を畏れて……の【ヒドイ母親】または【気弱で可哀そうなお姫様】という部分がやけに前面に出ていますが、大国主命との出会いを思い出してください。意地悪な八十神(やそがみ)達の求婚に対して自らこう言います、「……ここに八上比売、八十神に答へて曰く、『吾は汝等(いましたち)の言は聞かじ。大穴遅神(おおなむちのかみ)に嫁がむ』といひき。(私はあなた達の言うことはききません。私は大穴遅神と結婚します。)」と、自分の意思で八十神たちの申し出をきっぱりと断り、大国主命を選んでいます。また、はるばる出雲の地まで旅をして御子を生むなど、活動的ではっきりと自己主張できる自立した女性像が浮かんできます。

そして、八上比売のふるさと河原町やその周辺に伝わる、古事記とは違う神話伝承とは、霊力をもった巫女・豪族の娘・勇猛果敢に鬼退治をし、一族を束ね因幡を統治した烈女。かと思うと、御子神を愛情深く育てた母神としての伝承もあり、多面性を持った謎めいた女神像だったようです。 ここで素朴な疑問として、巫女や烈女伝説は古事記からも何となく想像できるんですが、古事記とは正反対の子育て伝承が伝わるのはどういうことでしょうか?

地元の伝承で犬山(いぬやま)神社(現:鳥取市用瀬町)の由緒書きにはこうあるそうです。「八上比売は八上の地で男御子を挙げられ、この地(この地というのは河原町の現在黒木神社[祭神:大巳貴神、御井神]のある場所の辺りです)の朽ちた桜の木の根もとの穴に置かれたそうです。それを見た地元の民が、畏れ多い事として御子神を大切に育て、その後 八上比売とともにお祀りしたということです。」しかも、子育て伝承は河原町だけではなく、もうひとつのゆかりの地、出雲市斐川町にも愛情深く御子神を育てた母神伝承がつたわります。最初は、八上の人たちの比売を思う気持ちという      (黒木神社)

か、こうあってほしいという願望が、このような伝承を生んだのかもしれないな~と思っていて、やはり斐川町でも八上比売は人々に愛されて、同じような理由で伝承が生まれたのかと思っていたんですが、何か しっくりこないものを感じて、「子捨て」に関してどんな意味があるのか自分なりに納得のいく説明がしたくなりました。それから もう一つ、御子神の二つの神名です。古事記では【木の股にさし挟んで置かれたから木俣神と名付けた】と神名由来が語られているのに、御井神についてはまったく説明もなく「亦(また)の名を御井神と謂ふ。」と取って付けたようにあるだけで、こちらもなんだかモヤモヤしたままです。(私の個人的感情ですが…)そんなことを思いつつ、少しづつ調べていたら去年の夏、「出雲の源郷 斐川の地名散歩」という神話伝承が由来になった地名辞典と出会いました。その中に「結(むすび)の郷」「姥捨て山と木の股年」という章があり、次のような伝承が伝わっています。

姥捨て山の地名が残る、斐川町直江(なおえ)に結という地区があり、そこに伝わる伝承です。「還暦(生まれて61年目)の年を木股年(このまたどし)といい、この年になると姥捨てと云って老人を山へ捨てた(略)……、しかし結の郷では、生活にゆとりのある人は木股年になると、静かな山に入って隠居した(略)……そこは豊かで住みよい土地であり隠居所だけでなく産屋もあり、お産や子育ての世話もした。八上比売がこの地で産気づいた時、木股年の老女たちが出産を手伝い、そのことから木俣神(このまたのかみ)と言われるようになったのではないか。(後略)…。」

つまり、八上比売ゆかりの地・斐川町では、【木の股に挟んだから木俣神ではなく、木股年の人たちがお産や子育てを手伝ったから「木俣神」といわれるようになったのではないか!?】と、いうことらしいのです。この伝承を見つけた時は「やっと見つけた!やっぱり!!」という気持ちと「まさか!?」という両方の気持ちで鳥肌が立ちました。多分、斐川町の人たちには当たり前のことで、「見つけたも何も、みんな知ってるそんな大した事ではないよ。」と言われそうですが、私にとっては大発見でした。(だいぶん後になってから藤岡先生にその話をしたら、「地元の人でも知る人は少ない」といわれ、やっぱり大発見だったかも!)伝承には続きがあって、八上比売は因幡には帰らず木俣神の成長を願いこの地に留まり、御子とともに結の郷の守護神となり結神社にお祀りされています。結神社とは実巽(じっそん)神社のことで雲陽誌(うんようし:享保2年[1717年]に松江藩士の黒澤長尚が編さんした出雲の地誌)にも記録があります。

そしてこの伝承を知った時に、以前から考えていた疑問やら仮説やら気になっていたワードやらが1本の線につながりました。(ここでは「結びついた」の方がふさわしいですね…)

 

 

 

 

 

(御井神社)                     (安産祈願の絵馬)

この続きは、次回『御子神は二人いた!!? ………かもしれない』篇 vol.2でお話します。それではまた お会いしましょう~。 みなさん よいお年を~!!(*^▽^*)ノシシ (おっちー)

 

 


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