みなさん こんにちはー!!
「ふることふみ(古事記)の倭(やまと)ごころ」2週間ぶりのUPで~す。
先日、「この連載楽しみにしてます!」というメールを頂いて、メチャメチャ感動の嵐状態の私です♪♪ こんな私の拙い連載を(しかも、かなりの妄想族かも)楽しみに読んでいただいているなんて本当にありがとうございます。 (―人―) これからもガンバリマス!!!
8回目の今日は前回で予告した「八上比売の生誕地はここだった!!! ………かもしれない」篇をおおくりします。
まだまだ調査途中なので断言はできませんが、1つの可能性だと思って読んでくださいね。
前回の【八上比売の謎 vol.Ⅰ】で「因幡誌」「稲葉民談記」「因伯年表」「大日本地名辞書」などの記述の矛盾や「和名抄(わみょうしょう)」「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」の参考記述の紹介をしました。 “八上郡の中に宮原があるに違いない”という仮説のもとに“宮原”探しが始まりました。
まずは河原町から!実は以前から“臭いぞ!”と思っている場所があって、時間が出来たら調べてみようと思っていたところから手をつけました。すると何ともあっさりと昔の地名台帳から“宮原”を見つけてしまいました!!( ̄∀ ̄;)………う、嘘でしょ!? こんなに早く? なんか出来すぎてない!? こんな感想を漏らす私に、以前から応援してくださっている方は「きっと導かれたんだから、疑わずに進んでみれば!?」と頼もしいエール。 俄然やる気の出た私はさっそく その地域の生き字引探しを始めました。尋ね尋ねて、たどり着いたのは偶然にも知り合いの方でした。“灯台もと暗し” これもやっぱりお導き? その方は霊石山(れいせきざん)の麓の地域・片山部落のTさんとおっしゃる方です。定年退職してから地域の歴史をコツコツと調べていらっしゃるそうで、私の“宮原”探しの話をしたら「面白そう!」と協力してくださいました。
そしてその場所とは今は千代川の水底に沈んでしまった『宮原千軒(みやはらせんげん)※』とバイパス横の『片山神社』です。(※…千軒とは古代から中世、近世に大規模集落として繁栄した経済の中心地)この神社は口伝によると鎌倉時代の建保年間(1213~1219年)国英神社より勧請とされているが、勧請理由不明ということで社号は八幡宮に。
明治元年、片山神社に改称。明治5年に国英(くにふさ)神社の摂社に。祭神は 帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと:仲哀(ちゅうあい)天皇)、息長帯比売命(おきながたしひめ:神功皇后(じんぐうこうごう))、品陀和気命(ほむだわけのみこと:応神(おうじん)天皇)の親子3柱です。しかし、「国英神社より勧請された」というところがTさんは疑わしいと思うそうです。まず位置に問題があるそうです。片山部落からは外れた場所にあり、今は片山の方たちが管理していますが、その昔、文禄2年(文禄年間1592~1596)の大洪水までは袋河原(ふくろがわら)の方たちが管理していたそうです。袋河原といえば そう、あの八上比売の“ダンナさん”大国主命(おおくにぬしのみこと)が肩にかけた袋を置いたと伝わる場所です。う~ん、だんだん匂ってきましたよー。 なぜ片山神社を片山部落の人ではなく袋河原の人たちが管理していたんでしょうか。Tさんの蔵書で「郷土研究―大字袋河原之調査」(明治19年~大正7年に編集された)には古代からの記録の中に文禄2年の大洪水で千代川の川筋が変わるまで、『袋河原はもと片山の北方、瀧山と云ふ地の前(西なり)にありしと云へば、宮原千軒に属せしもの』とあります。袋河原は現在の千代川が流れる場所にあった宮原千軒の中にあった、ということです。宮原千軒の正面・霊石山を背にして鎮座する片山神社は宮原千軒の産土神であり守り神だったのでしょう。そこを管理していたのが袋河原部落でした。鎌倉時代以前の記録がないので 最初に祀られていたご祭神が何だったのかは断言できませんが、おそらくお瀧さん(罔象女神みづはのめ、高龗神たかおかみ、闇龗神くらおかみ、瀬織津姫せおりつひめ、などのいずれかの水の神・龍神様)ではなかったかと思うのです。 *― つづく ―*(おっちー)