その拾壱【八上比売の謎「八上比売の生誕地はここだった!!!…………かもしれない」篇vol.4】
2012年6月23日
みなさん こんにちはー。この前の台風大丈夫でしたか?
前回は、私都川(きさいちがわ)の岸辺に片山神社を霊石山(れいせきざん)の中腹から遷座したのではないか!?というところまででした。 そうなんです、霊石山からなんです! ……たぶん(^_^;)
古来、日本人はお山信仰をしていました。山に神様が宿り、山そのものが御神体としてお祀りし祠やお宮を建て、時代を経てだんだん里に降ろして(遷座:せんざ)いったのです。
ところで、山の数え方をご存知ですか? 山は“一座、二座…”と数えます。なぜかというと、古代日本人は山を神様がお座りになる椅子のようなものと見ていたからだそうです。だから、“座”と数えるんですね。神様たちは高天原(たかまのはら・たかまがはら)から地上へ降り立つときに山の頂上を仮宮として滞在なさって、また神上がりなさいます。ですから、もう山そのものが尊い御神体として古代日本人はお祀りしていたんです。それが時代とともにだんだん人里に遷宮されるようになり、本宮は奥の院または奥都城(おくつき)として村を見下ろす山に残されたのです。奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)はいまでも三輪山(みわやま)を御神体としてお祀し、日本でもベスト3に入るパワースポットとして参拝者が絶えません。昔のままの信仰を形として残す山です。そして、御神体が大物主神(おおものぬしのかみ)=大国主命(おおくにぬしのみこと)の荒御霊なのもとても御縁を感じますよね。
霊石山には天照大御神(あまてらすおおみかみ)の降臨伝説(全国的にも珍しい)があり、その中腹に位置する“御子岩(みこいわ:御冠岩[みかんむりいわ])”には天照大御神のほかに神功皇后(じんぐうこうごう:長帯比売命[おきながたしひめ])、応神天皇(おうじんてんのう:品陀和気命[ほむだわけのみこと])の伝説もあります。神功皇后・応神天皇といえば、今の片山神社の御祭神です。この古事記ゆかりの霊石山が御神体そのもので“御子岩”といわれる縦・横・奥行き約5メートルづつある大岩が磐座(いわくら:まだ社殿がなかった時代に神が降臨する場所として原始的な祭祀を行った場所、または御神体)として祀られ元片山神社があったものと推察します。そして里に降り、天皇家に御縁のある私都川の岸辺に遷座した。もちろん御祭神は龍神系(瀬織津姫[せおりつひめ]、罔象女神[みずはのめ:お瀧さん]、高龗神[たかおかみ]、闇龗神[くらおかみ]、市杵島姫命[いちきしまひめのみこと:弁天さん])、そして八上比売(やかみひめ)であったと思います。八上比売もまた瀬織津姫とよくすり替えられているようです。 私とTさんが片山神社の口伝の信ぴょう性をイマイチ疑っているのは、こういう訳なんです。
片山神社を取り巻く環境や資料・伝説の数々を並べると、どう考えても霊石山から遷座され何かの理由で故意にすり替えられたのか、または故意ではなく伝達の途中ですり替わってしまったのかで八上比売さんの名前が消えてしまったのではないかと思うのです。
大穴牟遅命(おおなむちのみこと:大国主命[おおくにぬしのみこと]の幼名)がはるばる出雲からやってきて(たぶん海路?)最初の妻・八上比売を娶る話には“翡翠(ひすい)を求めてやってきた”とか、“侵略しに来た”(これは違うと思いますが)とか、“同盟を結びに来た”など様々に推測されていますが、何がどうあれ大穴牟遅命がやって来たことによって出雲と稲羽の文化・技術の交流がなされたのは間違いないことで、古事記から読み取ると大国主命の国造りは稲作文化・技術の伝授が大きなものです。
6世前の先祖・建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治して(暴れ川の斐伊川一帯を稲作地帯にした説)国造りをしたように、大穴牟遅命もまた稲羽の王の娘を娶る資格を得て稲羽に稲作文化をもたらし八上比売とともに国造りをしたのです。その最初の場所だったかもしれない“宮原”は国中平野(くんなかへいや)の中心・霊石山の眼下に広がるこの“宮原千軒”だったと思うのです。そしてその護り神として八上比売さんをお祀りしたのだと思います。
因幡の国が、悠紀(ゆき)の国・主基(すき)の国(大嘗祭[だいじょうさい]のとき神饌[しんせん]の新穀を奉るよう卜定[ぼくじょう]によって選ばれる国。平安時代以後は近江国に一定に、または丹波・備中を交替にあてるようになる)と何度も選ばれ朝廷から信頼されるほどの米どころにまでなったのは、大穴牟遅命と八上比売さんの御加護だったのでしょうね~。 (*^▽^*)ノシシ(おっちー)
その拾 【八上比売の謎「八上比売の生誕地はここだった!!!…………かもしれない」篇vol.3】
2012年6月15日
みなさん こんにちは。前回の続きです。
片山神社の最初の御祭神は誰だったのか?というところで、私の考えを話したところで終わっていましたね。 なぜそう思うのか、理由を話す前に、下の図をご覧ください。これはTさんの「郷土研究―大字袋河原之調査」にある大洪水のあった文禄2年を挟んだ前後の千代川の川筋を描いた絵図です。
文字が読みづらいですが、実線が現在に近い川筋で破線が大洪水の前の川筋です。智頭川が合流した千代川は丸山とお城山をなめるように流れ、八東川と合流し七つ山(長瀬の後方の山)の裾野のギリギリを通り蛇行し、円通寺・八坂のあたりでまた蛇行していました。(破線部分)
そして、ここにはありませんが、千代川に合流している八東川には私都川(きさいちがわ)が流れ込んでいるんですが、当時は単独で流れていたことが確認されています。私都川は八東川とは別のルートで国中(くんなか)平野を流れ、河原町にたどり着き、霊石山の麓を洗っていたのです。霊石山から流れ出る大小の滝も流れ込み豊かな流れであったのでしょう。そして、その私都川沿いに霊石山を背負って片山神社が眼前に広がる宮原千軒(みやはらせんげん)の守り神として鎮座していたのです。今も片山部落の中に私都川の名残りの用水路があり、入り口付近にはお瀧さんも確認でき弁天様もお祀りされています。今回の“宮原探し”には、この私都川も大きな意味を持つのです。
私都とは「きさいち・きさいべ」と読み、皇后とかかわりのある地名なんです。「日本書紀」には私部(きさいちべ)と記されています。皇后に関係したいろいろ仕事をする役所・これを私府(きさいふ)といい、その任に当たる人を私官(きさいかん)といいました。后のために農耕をしたり、身の回りの世話をする人々を総称して私部(きさいべ)といい、いわゆる部民(べのたみ)と呼ばれる人々です。
物部守屋(もののべのもりや)が蘇我馬子(そがのうまこ)に対抗する為、自分の所領で重要な土地であった交野の沃野を敏達(びだつ)天皇の皇后・豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきひめ)、後の推古天皇に献上しました。以来、交野市の地は皇后のための皇室領となり、交野の村々は皇后の部民として組織されました。その中心になった村が私市であり、私部だったのです。これが、後世、訛って、「きさいちのうち」「きさいち」となったといいます。この皇后の身の回りの世話をする人々=私部の民が古代因幡の国の八上郡(やかみごおり)にもいて、それが私都川上流の私都の人々でした。そしてその周辺の神社にお祀りされている御祭神は「瀬織津姫(せおりつひめ)」という皇室に関係の深い女神様です。瀬織津姫は古事記にも日本書紀にも出てこない、唯一、大祓詞(おおはらえことば)に1度だけ登場する謎の女神様です。
「ふることふみ(古事記)の倭(やまと)ごころ」の最初でもお話したように、古事記・日本書紀は時の権力者が自分たちに都合の悪い部分や、書かなくてもいい部分、書く必要のない部分についてはカットしています。そして、歴史の闇に葬られたであろう歴史書も数多くあり、その中の一つに「ホツマツタエ」というものがあります。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、江戸時代に偽書の烙印を押されてから忘れ去られていた歴史書です。この「ホツマツタエ」を近年、研究・調査する動きが出始め、実際に学者さん、民間人、宮内庁・皇室関係者、神社関係者などの方々が研究しています。この「ホツマツタエ」の内容はと言うと、「ヲシテ文字」という古代文字で書かれ解読がとても難しいのですが、瀬織津姫に関して次のように書かれています。(ザックリまとめました) そもそも天照大御神(あまてらすおおみかみ)は男神で、その皇后が瀬織津姫だと。もう、ビックリです!!女神だとばかり思っていた天照大御神が男神で皇后がいたなんて!!初めはチョット眉つばなカンジがしいましたが、自分でも少しづつ調べたり、本格的に研究なさっている八頭町出身の神話研究家の大江幸久(おおえ ゆきひさ)氏のご教授を頂いたりして…「もしかすると!?」と思い始めました。実際、天照大御神は男神かもということは一部では云われてましたし、私も古事記・日本書紀が成立した年代に女性天皇が続いたので敬意を払って(気を遣って!?)女神にしたんだよ~なんてことは納得できるので、ホントは男神って云われても「そうかも!?」と自然に考えることはできます。それに世界的に見てどの国の部族の太陽神も大体が男神ですもんね。その他にもいろいろと裏付けになる資料や現象、現地調査や地元の石碑・口伝などで瀬織津姫が皇后をお護りする象徴であり、皇后をお世話する私部の人々がお祀りしていた女神様だとわかったのです。しかし、何らかの理由で瀬織津姫は正式な倭の歴史から姿を消し去られたようなのです。『全国に「瀬織津姫」という祭神名で祀られている神社は約500社で、その中で鳥取県は26社と、数においては全国で3番目に多く残っています。1位の岩手県が36社、2位の静岡県が32社ですが、面積は岩手が鳥取の4倍以上、静岡が鳥取の2倍以上です。すると密度比較では鳥取県が断トツでナンバー1なのです。瀬織津姫を祀る神社の数と密度において、全国を見渡しても突出している鳥取県ですが、中でも因幡に集中しているのです。』(大江氏の考察より抜粋) 名前を変えられて(変えざるをえない理由で)祀られている神社はこの何倍にもなるでしょう。そして私都にはそのほかに、皇室と関わる「峰の薬師」があります。『 ここは皇族の血統以外で初めて天皇の后となった藤原不比等の娘、光明皇后と関わる寺院です。光明皇后の母君である縣犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)が、自分の娘を皇后にしようと誓願を立てて、その念願成就の後にこの私都に日本三大薬師の一つ、峰寺薬師を創建したのです。 奈良時代に、皇室とその親族以外の身分から天皇の后が入内する、これはそれ以前にはなかったことです。 そのタブーを破って藤原不比等と橘三千代は自分の娘を入内させようとしました。これは藤原氏が覇権を握るための大きな出来事です。そしてそれは皇室にとっても一つの歴史的転換点となります。この入内を成功させるために、橘三千代が誓願した三つのお寺の一つが、なんと下私都の峰寺(みねでら)にある峰寺薬師なのです。これが元で奈良法隆寺、三河鳳来山薬師寺と共に日本三大薬師と呼ばれているのです。ではなぜ、その一つがこの私都にあるのか、いままで全くの謎でした。 私都は天照大神の正后といわれる瀬織津姫(伊勢神宮内宮正宮の隣にある荒祭宮の祭神なので、天照大神とは並々ならぬ御縁がある祭神です。)を祀る神社が密集しているところであることから、私都は瀬織津姫と並々ならぬご縁を持っているところとして、おそらく古代の大和においても有名なところだったのでしょう。 橘三千代の娘を是が非でも天皇の后にするためには、天照大神のお后である瀬織津姫にご縁の深いところにも誓願寺を建てる必要があると思ったのでしょう。そうして橘三千代・藤原不比等はその宿願を果たすためにその薬師の寺を建立するのにふさわしい所として奈良の都から遠い瀬織津姫と縁の深い八上の私都を選んだものと思われます。 そうして実現したのが、聖武天皇の后、光明皇后です。これが私都に誓願寺、日本三大薬師の峰寺薬師が建立された理由と思われます。 このように八上の私都は古くは皇室やお后と密接な関係を有していた、と思われるのです。つまり瀬織津姫が記紀によって抹消される前、私都は中央からも意識される土地柄であったのです。』(大江氏の考察より抜粋)
瀬織津姫は名前のとおり水の神であり龍神様です。だから、罔象女神(みずはのめ:お瀧さん)、高龗神(たかおかみ)、闇龗神(くらおかみ)、市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと:弁天さん)などに名前を変えてお祀りされている事が多いことが調査の結果、明らかになりました。そこで、この私都川の清い流れの岸辺に片山神社を遷座したのではないかと思うのです。「えっ!なんで?どこからかって!? ……霊石山の中腹からです!!」 「なんで霊石山からになるかって!!??」「それはですね……」
それは次回【八上比売の謎 vol.3】で!! (*^▽^*)ノシシ(おっちー)
その九 【八上比売の謎「八上比売の生誕地はここだった!!!…………かもしれない」篇vol.2】
2012年6月8日
みなさん こんにちはー!!
「ふることふみ(古事記)の倭(やまと)ごころ」2週間ぶりのUPで~す。
先日、「この連載楽しみにしてます!」というメールを頂いて、メチャメチャ感動の嵐状態の私です♪♪ こんな私の拙い連載を(しかも、かなりの妄想族かも)楽しみに読んでいただいているなんて本当にありがとうございます。 (―人―) これからもガンバリマス!!!
8回目の今日は前回で予告した「八上比売の生誕地はここだった!!! ………かもしれない」篇をおおくりします。
まだまだ調査途中なので断言はできませんが、1つの可能性だと思って読んでくださいね。
前回の【八上比売の謎 vol.Ⅰ】で「因幡誌」「稲葉民談記」「因伯年表」「大日本地名辞書」などの記述の矛盾や「和名抄(わみょうしょう)」「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」の参考記述の紹介をしました。 “八上郡の中に宮原があるに違いない”という仮説のもとに“宮原”探しが始まりました。
まずは河原町から!実は以前から“臭いぞ!”と思っている場所があって、時間が出来たら調べてみようと思っていたところから手をつけました。すると何ともあっさりと昔の地名台帳から“宮原”を見つけてしまいました!!( ̄∀ ̄;)………う、嘘でしょ!? こんなに早く? なんか出来すぎてない!? こんな感想を漏らす私に、以前から応援してくださっている方は「きっと導かれたんだから、疑わずに進んでみれば!?」と頼もしいエール。 俄然やる気の出た私はさっそく その地域の生き字引探しを始めました。尋ね尋ねて、たどり着いたのは偶然にも知り合いの方でした。“灯台もと暗し” これもやっぱりお導き? その方は霊石山(れいせきざん)の麓の地域・片山部落のTさんとおっしゃる方です。定年退職してから地域の歴史をコツコツと調べていらっしゃるそうで、私の“宮原”探しの話をしたら「面白そう!」と協力してくださいました。
そしてその場所とは今は千代川の水底に沈んでしまった『宮原千軒(みやはらせんげん)※』とバイパス横の『片山神社』です。(※…千軒とは古代から中世、近世に大規模集落として繁栄した経済の中心地)この神社は口伝によると鎌倉時代の建保年間(1213~1219年)国英神社より勧請とされているが、勧請理由不明ということで社号は八幡宮に。
明治元年、片山神社に改称。明治5年に国英(くにふさ)神社の摂社に。祭神は 帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと:仲哀(ちゅうあい)天皇)、息長帯比売命(おきながたしひめ:神功皇后(じんぐうこうごう))、品陀和気命(ほむだわけのみこと:応神(おうじん)天皇)の親子3柱です。しかし、「国英神社より勧請された」というところがTさんは疑わしいと思うそうです。まず位置に問題があるそうです。片山部落からは外れた場所にあり、今は片山の方たちが管理していますが、その昔、文禄2年(文禄年間1592~1596)の大洪水までは袋河原(ふくろがわら)の方たちが管理していたそうです。袋河原といえば そう、あの八上比売の“ダンナさん”大国主命(おおくにぬしのみこと)が肩にかけた袋を置いたと伝わる場所です。う~ん、だんだん匂ってきましたよー。 なぜ片山神社を片山部落の人ではなく袋河原の人たちが管理していたんでしょうか。Tさんの蔵書で「郷土研究―大字袋河原之調査」(明治19年~大正7年に編集された)には古代からの記録の中に文禄2年の大洪水で千代川の川筋が変わるまで、『袋河原はもと片山の北方、瀧山と云ふ地の前(西なり)にありしと云へば、宮原千軒に属せしもの』とあります。袋河原は現在の千代川が流れる場所にあった宮原千軒の中にあった、ということです。宮原千軒の正面・霊石山を背にして鎮座する片山神社は宮原千軒の産土神であり守り神だったのでしょう。そこを管理していたのが袋河原部落でした。鎌倉時代以前の記録がないので 最初に祀られていたご祭神が何だったのかは断言できませんが、おそらくお瀧さん(罔象女神みづはのめ、高龗神たかおかみ、闇龗神くらおかみ、瀬織津姫せおりつひめ、などのいずれかの水の神・龍神様)ではなかったかと思うのです。 *― つづく ―*(おっちー)
-スピリチュアル・バスツアー 「河原歴史浪漫-神話の里を訪ねて-」 開催しました!!
2012年6月3日
今月3日(日)にスピリチュアル・バスツアー 「河原歴史浪漫-神話の里を訪ねて-」で古事記ゆかりの史跡巡りの旅を開催しました。去年の「神話のふるさとバスツアー・古事記と八上姫をたずねて」に続く古事記の旅・第2弾です。
それでは、その時の様子を少しだけご紹介します♪
今回 初めて霊石山(れいせきざん)の御子岩(みこいわ(御冠岩:みかんむりいわ))に登りました。道幅の狭さで大型が通れずに、今までは河原城の展望台からガイドしていて、いつかは御子岩までみなさんをお連れしたい!と思っていたんですが、やっと願いが叶いました(T_T)
この日のために町内の有志の方に手伝っていただいて草刈りをしました。これから御子岩見物にお越しになる方はラッキーですよ! もうあと2週間もすれば、また草ボウボウになっちゃいますよ~。
霊石山に伝わる天照大御神(あまてらすおおみかみ)の降臨伝説や古事記ゆかりの御子岩の話などを因幡の国中(くんなか)平野の絶景を見下ろしながら聞いていただきました。 次は、霊石山の麓に鎮座する片山神社のご案内です。ここはバイパスが出来るまでは霊石山から続く杜に護られ、ひっそりと静かなお宮さんでしたが、今は敷地の半分をバイパスが走り、参道も分断されて地下道で村と行き来するようになりました。
この神社はその昔、片山地区の国英(くにふさ)神社から勧請された八幡様で祭神は仲哀天皇(ちゅうあい)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじん)の親子3柱です。わざわざ皆さんをここにご案内したのは古事記ゆかりの天皇ご一家をお祀りしているからだけではない、もう一つの理由があるのですが、詳しいことは―ふることふみ(古事記)の倭(やまと)ごころ・その八―でお話ししますね!
そして、素通りできないのがここ売沼(めぬま)神社。今日も八上比売(やかみひめ)さんは優しく迎えてくださいました。恒例の新人スタッフの手水舎と拝礼の見本実演。対岸の嶽古墳(だけこふん:八上比売の墓と伝わる)の話や神社の由緒、「七不思議」などのお話をし、『祓詞(はらいことば)』(神様と交流するための詞 )というものを参加者のみなさんと奏上しました。
このあと曳田川に沿って整備された八上姫公園での散策を楽しんでから東屋で「こばさまタイム(河原町の方言でおやつの事)」のはずだったんですが……ナント配達を頼んだお店が道に迷って時間に間に合わないというハプニングがありました。参加者のみなさん、本当にごめんなさい(―人―)
次のガイドポイント「牛戸三枚岩(うしのとさんまいいわ)」で こばさまが届きました。やれやれ…… 「昔、長者の娘のもとへ毎夜通ってくる男がいました。朝になる前に帰っていく男の素性を知ろうと娘は・・・」いったい何をしたのでしょうか!?古事記、日本書紀に記述がある「三輪山伝説」がこの「牛戸三枚岩」です。
「甌穴(おうけつ)が見えますよ~」とご案内したら、みなさんつり橋の上から探しながら曳田川の清らかな流れに見とれていました。ちょっと揺れてヒヤッとしましたが、これもまた楽しいハプニング♪
今回のスピリチュアル・バスツアー「河原歴史浪漫-神話の里を訪ねて-」の旅はここ牛戸三枚岩でお開きとなりました。半日のショートコースで少し物足りない気もしましたが、みなさん、お疲れさまでした。 河原町の魅力がすこしでも伝ったでしょうか!? このシリーズの次回開催は11月4日(日)です(遠いっっ!!) 次回は、一日コースで今日訪れた場所以外の古事記ゆかりの地を訪ねますので、お楽しみに♪
それでは、またお会いできる日まで・・・・・(*^▽^*)ノシシ (おっちー)
みなさん、こんにちは~。 今日は前回の予告通り「八上比売の生誕地はここだ-!!! ………ったかもしれない」篇にいきたいところですが、6月3日のバスツアーでもご案内する内容ですので それまではチョット休憩ということで、今回は古事記の最初からお話したいと思います。
「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら・たかまがはら)に成りし神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)……」から始まる古事記・上巻(かみつまき)の本文、このフレーズを聞いただけでワクワク・ドキドキするのは私だけでしょうか!?
宇宙が出来てまだ間もない時、時間も音も光も星もない天も地もなく混ざり合っていた空間が、天と地に初めて分かれ始めた時、高天原(たかまのはら・たかまがはら:天上界)に神が現れます。たったこれだけの1行の文章の中に語りつくせないほどの摩訶不思議が隠されています。
「天地初めて発けし時」なんてスゴクないですか!? 21世紀の科学力をもってしても解明できない宇宙の初め“ビッグ・バン”を想像させる書き出しは、古代日本人がどうして知り得た知識なのか!? そして「高天原」という発想。単に天上界と言うだけではなく縦(高さ)+横(広がり)+時間の3次元の世界を認識していると考えるのは深読みでしょうか!? そして、次がとっても日本人らしくて大好きな表現(考え方)なんですが、「成りし神の名は」これですよ、コレ!!西洋のように神が万物の創造主であり唯一絶対無二の存在というのではなく、森羅万象の中からというか一部として自然と生まれた、これが「成る」ということであり日本の神々の「化成する神」もしくは「物実(ものざね)」の考え方です。だから日本には八百万(やおよろず)の神が存在するのです。古代人は生まれてきたこと、生きること、死んでいくこと、死んでからのことまで全ての事に感謝し、そこには何かしらの力(目に見えるもの、見えないもの全部)が働き、神の存在を感じながら生活していたんだろうなぁ~と想像できるのです。 私個人としては無宗教なんですが、八百万の神の存在はな~んか感じてしまうんですよね~(*U_U*)
やっぱり倭心のDNAが私の中にも受け継がれてるんでしょうね。
話が長くなりましたが、出だしのトコだけでも熱く語ってしまう私でした。これじゃあ なかなか進まないんですが、みなさん あきれないで最後までお付き合いくださいねー!!
こんな風に天之御中主神のあとに、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)が成りました。「この三柱(みはしら:神様は一柱二柱と呼びます)はみな独神(ひとりがみ)として成りまして、身を隠したまひき。」とあります。 この三柱の神様たちはどんな神様たちだったんでしょう? 天之御中主神は天上界の中で中心的な最高神。高御産巣日神は天上界(皇室系)の創造神。神産巣日神は地上界(出雲系)の創造神。 独神というのは性別もなく単独神で系譜を持たない身には見えない神のことで、いつの間にか居なくなった(身に見えないだけで私たちの傍にちゃんと居るんですけどね)という意味です。
このあと どんどん神様たちがお生まれになりますが、続きはまた次回でお話しますね。それでは今日はこのへんで~(*^▽^*)ノシシ (おっちー)